レフ・ダヴィドヴィチ・トロツキー(ロシア語:Лев Давидович Троцкий, 英語:Lev Davidovich Trotsky, 1879年10月26日(グレゴリオ暦11月7日) - 1940年8月21日)は、ウクライナ生まれのボリシェヴィキ革命家・政治家・マルクス主義思想家。本名はレフ・ダヴィドヴィチ・ブロンシュテイン(Лев Давидович Бронштейн, Lev Davidovich Bronstein)といい、晩年は後妻ナターリアの姓をとってセドフ(Лев Давидович Седов, Lev Davidovich Sedov)に改姓した。ただし、一般に「レフ・セドフ」という場合は、トロツキーとナターリアの間に生まれた長男(愛称「リョーヴァ」)を指す。「レフ」は英語の「レオン」と同じで、「ライオン」という意味の名前である。英語風の綴りLeon Trotsky にもとづいた、レオン・トロツキーとの表記も非常に多い。
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十月革命における指導者の1人であり、ウラジーミル・レーニンに次ぐ人物であった。赤軍の創設者および指揮官として、ソビエト連邦の初期の頃には外務人民委員として外交問題を担当。ソ連共産党政治局員の1人でもあった。1920年代に、政策を巡ってヨシフ・スターリンと対立、「左翼反対派」を結成した。しかし、党の書記長という強大な権力の座にあったスターリンとの権力闘争に敗れたことでトロツキーはソ連共産党を除名され、さらに大粛清によってソ連国外に追放された。メキシコに亡命したトロツキーは第四インターナショナルを結成し、ソ連のスターリン主義者の官僚制に反対し続けたが、1940年にスターリンの刺客ラモン・メルカデルによって暗殺された[1]。トロツキーの考えは、マルクス主義思想から離れるために彼の対立者によって1905年の早い時期に作られた造語トロツキズムを基盤とする。
文芸評論家でもあり、イプセン論もある。
イスラエルの極右活動家ダヴィド・アクセルロッドは、トロツキーの曾孫である。
1879年、ロシア帝国時代のウクライナ南部のヘルソン県イワノフカの最寄の郵便局から15マイル離れた小さな村にて、父ダヴィド(1847年 ? 1922年)と母アンナの第5子として生まれる。両親は文盲のユダヤ系の富農であった。家族は民族的にユダヤ人であったが、信心深くはなく、自宅ではイディッシュ語の代わりにロシア語とウクライナ語で会話していた。レオンの妹オルガ・ダヴィドヴナ・ブロンシュテインOlga Kamenevaは、ボリシェヴィキの指導者の1人であるレフ・カーメネフと1900年代の早期に結婚し、子供を2人儲けている。レオンが9歳のとき、父は教育を受けさせるために息子をオデッサに送り、ドイツ人学校に入学させた。ドイツ人がレオンの経歴を指摘したように、オデッサは当時の典型的なロシアの都市とは違って慌しい国際的な港市であった。この環境は、青年の国際的な前途の開拓の一因となった。のちに自伝『わが生涯』で述べられているが、レオンはどんな言語も完全に流暢には話せなかったが、ロシア人でありウクライナ人であったRaymond Molinierは、トロツキーはフランス語を流暢に話していたと書いている[2]。
革命生活と流刑(1896年 ? 1902年)
ニコラーエフ(現在のムィコラーイウ)に移動したあとの1896年に、レオンは革命活動に関わり始めていた。学生時代に初めてマルクス主義に触れたレオンは共産主義運動に加わった。当初ナロードニキ(narodnik)のレオンがマルクス主義を紹介されたその年は、当初はその思想に反対していた。1897年の早期に、レオンはニコラーエフにて数学の学位を追求する代わりに南ロシア労働者同盟の組織化を手伝い、幹部として働いた。レオンは「リヴォフ」という名前を用いて[3]小冊子と声明を印刷し、革命の小冊子を配布して工員や革命学生たちのあいだで社会主義の考えを大衆化させた。1898年1月、レオンを含めたメンバー200人が逮捕され、裁判を待つのに2年費やした。懲役刑2年を受けたレオンはオデッサで収監された。1900年からはシベリアへの流刑に処されるが、2年後に脱走した。流刑と投獄の時期に、レオンは徐々にマルクス主義者となった。
トロツキーの姓は、この逃亡時に、以前オデッサで収監されていた当時の看守の名前が印象に残ったため、それを借用したものである。トロツキーはスイスを経てロンドンに亡命し、そこで機関紙『イスクラ』を出版していたウラジーミル・レーニンらのロシア社会民主労働党と合流した。翌1903年、社会民主労働党が分裂すると、レーニンらの「多数派」(ボリシェヴィキ)ではなく、「少数派」(メンシェヴィキ)に所属する。
ロシア革命
シベリア流刑中のトロツキー
トロツキー(1918年)1905年、メンシェヴィキからも早々に離脱したトロツキーは、血の日曜日事件以来政治変動の続くロシアに帰国して地下活動に入り、サンクトペテルブルク・ソビエトの指導者となった。10月にはロシア全土で起こったゼネラル・ストライキにも関与するが、12月に逮捕され、サンクトペテルブルク・ソビエトも壊滅した。トロツキーはシベリアへの終身流刑を宣告されたが、護送中に脱走。ウィーンへと亡命して雑誌『プラウダ』を創刊し、永続革命論を提唱した。第一次世界大戦がはじまると、居をスイス、ついでフランスに移し、雑誌『ナーシェ・スローヴォ』に拠ってドイツ社会民主党、フランス社会党など戦争支持を決めた社会主義政党を批判する論陣を張る一方、1915年にはスイス社会党が主宰した「ツィンメルワルト会議」で反戦を訴えた。しかし翌年、フランスから追放され、スペイン経由でアメリカ合衆国のニューヨークへと移る。ニューヨークではニコライ・ブハーリンらと共に露語新聞『ノーヴィ・ミール』に参加している。
ペテログラードに到着したトロツキー1917年、ロシアで2月革命が起こってロシア革命が始まるとニューヨークを発ってロシアへ帰国。この際にロックフェラー財閥から2000万ドルの資金援助を受けた、という説がある。メジライオンツィ(「統一社会民主主義者地区間組織」。ボリシェヴィキ、メンシェヴィキいずれにも所属しない社会主義者組織)の指導者としてボリシェヴィキと歩調をあわせ、革命運動に参加した。7月にはボリシェヴィキに入党し、9月にペトログラード・ソビエト議長に就任。10月革命では、軍事革命委員会の委員長として軍事蜂起を指導、ボリシェヴィキの権力奪取に貢献した。
レーニンが人民委員会議議長(首相に相当)に就任したボリシェヴィキ・左派エスエル(社会革命党)連立政権のもとでは外務人民委員(外相に相当)に就任。ドイツとの講和交渉を担当し、ブレスト・リトフスク条約の締結に関わった。条約締結に際しては、ボリシェヴィキ党内では意見が分かれ、トロツキーは当初、ブハーリンら戦争継続派には反対しつつ、即時講和を主張するレーニンの立場も危険が大きいとし、「戦争もなく、講和もなく、ドイツ労働者の蜂起を待つ」との姿勢をとった。しかしドイツ政府が強硬姿勢を見せ、軍をロシア領内に侵攻させると、レーニンに賛成し、講和に踏み切った。
赤軍の宣伝ポスター1918年2月に外務人民委員を辞任し、かわって軍事人民委員・最高軍事会議(9月以降は共和国革命軍事会議)議長に就任する。軍事的な組織と扇動に巧みで、大衆の人気も高かったといわれるトロツキーは赤軍の組織に着手し、内戦において赤軍の指揮者として反革命軍(白軍)の撃破や外国の干渉の排除に大きな功績をあげた。しかし、1922年のクロンシュタット軍港の「第三革命」を呼号する水兵たちの蜂起とそれに呼応したストライキに対する革命政権による武力弾圧や、ウクライナ地方のネストル・マフノ率いる農民アナキズム運動の圧殺を支持するなど、「トロツキーには後のスターリンと共通点を見出せる」とする指摘・批判もある。
失脚・最期
10月革命を現実に指導したのは、トロツキーとレーニンの2巨頭だった。トロツキーは赤軍(赤衛軍)の創始者で、白軍(白衛軍)に対する内戦でこれを勝利に導いた立役者だった。
1924年のレーニンの死後、書記局長・スターリンが台頭すると、トロツキーとスターリンの対立が明確化する。スターリンは政治的に策略に長けており、党内の地位を最大限に活用し、時にはジノヴィエフやカーメネフ、時には右派のブハーリンと組み、トロツキーの地盤を次第に蚕食した。スターリンは、トロツキーの世界革命論に反対し、一国社会主義論を唱えた。党の官僚たちには魅力的な提案である。トロツキーはイデオロギー上でも党の主流派と激しく対立。「左翼反対派」、ついで「合同反対派」を組織して抵抗するが、戦争と内戦に疲弊した大衆を味方につけたスターリンの前に敗北し、1925年、トロツキーは軍のコミッサール(人民委員)の地位を解任され、閑職に追いやられた。1927年には政府・党の全役職を解任された上、1928年に中央アジアのアルマ・アタ(現在のカザフスタンのアルマトイ)へと追放された。1929年にはソビエト連邦から国外追放される。トロツキーは国外からも反スターリン、世界革命の運動を続けようとした。まず、トルコが彼に亡命を認めた。イスタンブールからも近い、マルマラ海のプリンスィズ諸島(アダラル)での生活の後、1933年にはフランスへ、1935年にはノルウェーに移った。しかし、翌1936年、ノルウェーはソ連の圧力で彼に国外退去を求めた。トロツキーはメキシコに居を定めた。この間、1938年には第四インターナショナルを結成し、コミンテルンに代わる国際社会主義運動の組織化に乗り出すが、スターリンはソ連国内で反対者の大粛清を進めており、ついには国外にいたトロツキーの身辺にもスターリンの送り込んだと思われる襲撃者が現れるようになっていた。
1940年の時点でスターリンの「暗殺リスト」には、まだ1人だけ大物が残っていた。それがトロツキーだった。これに先立つ数年間、スターリンは「古参ボルシェビキ」を大量粛清している。右派、左派、中道を問わず、自らの権力のライバルとみなした人間の多くを「見せしめ裁判」と呼ばれる公開裁判によって自らの「反革命活動」を「自供」させたうえで死刑宣告によってことごとく抹殺した。ジノヴィエフ、カーメネフ、ラデック、ブハーリン、ピャタコフ等の革命の元勲もこれに含まれる。宿敵として残ったのはトロツキーのみだった。
愛息を誘拐殺害され、身辺への危機がさらに迫ったため、自宅を要塞化して防衛した。
メキシコシティのコヨアカン地区にあるレフ・トロツキー博物館に建てられたトロツキーの墓1940年8月20日、トロツキーは秘書の恋人になりすましたラモン・メルカデルによってピッケルで後頭部を打ち砕かれ、翌日収容先の病院で死亡した。この時、「スターリン伝」を執筆中だったという。メルカデルは現場で拘束され、メキシコで20年間服役した後、ソ連に帰って1961年にレーニン勲章を受けた。
エピソード
1920年に著作『テロリズムとコミュニズム』を刊行し、ドイツ社会民主党のカウツキーらの「ソビエトはボルシェビキによる赤色恐怖支配」という批判に対して、「革命のさなかにおいて、資本家のテロは歴史を若干遅らせるだけだが、革命派の資本家へのテロは歴史を促進する」と革命のためのテロを擁護した。この著作は、現在も旧ソ連共産党古文書館にヨシフ・スターリンの蔵書の一冊として保管されている。なお、政敵で常にトロツキーを敵視していたスターリンもこの本のテロを賛美している箇所全てに「同感!」「的確!」などと書き込みを入れている。
赤軍を率いていた際、兵士の間で「白い虫(白軍)を殺せ」という歌がはやったが、トロツキーは「赤軍の役目は、白軍兵士を殺すことではなく彼らを武装解除することであり、白軍兵士も同じ階級なのだから、彼らを組織するつもりで戦おう」と訴えて、その歌を歌うことを禁じた。
トロツキーの亡命先のメキシコで、トロツキーが身を寄せていた住居が銃撃される。住居は要塞化され、トロツキーは秘書や支援者とともに「避難訓練」を繰り返した。トロツキーの秘書は、トロツキーの性格を考えて、なぜトロツキーが避難訓練に熱心なのか訝ったが、実はトロツキーにとって愛人宅に行くための「脱出訓練」だったことを知り、秘書は避難訓練をボイコットした。
メキシコ亡命中にフリーダ・カーロと不倫をしている。
革命当初、地方を回って督戦中、乗っていた車が反対派に包囲された。銃を突き付けられ万事窮したトロツキーは即興の演説を行い、敵を説得させて味方にしてしまった。