2009年06月17日

ベルリンの壁(ベルリンのかべ、Berliner Mauer)は

ベルリンの壁(ベルリンのかべ、Berliner Mauer)は、1961年から1989年の間に存在した東ドイツ(東ベルリンを含む)と西ベルリンを隔てる壁。東ドイツが建設した。

第二次世界大戦後、ドイツは米・英・仏占領地域を基礎とする資本主義体制を採った西ドイツと、ソ連占領地域を基礎とする共産主義体制を採った東ドイツに分断した。

ベルリンは都市自体が米英仏ソによって分割占領されたが、米英仏の占領地域たる西ベルリンは周囲を全て東ドイツに囲まれた「赤い海に浮かぶ自由の島」となってしまったことで、東ドイツ住民の西ベルリンへの逃亡が相次いだ。かかる住民流出に危機感を抱いたソ連及び東ドイツ政府は、住民流出を防止するために壁を構築した。壁は両ドイツ国境の直上ではなく、すべて東ドイツ領内に建設されていた。同一都市内に壁が建設されたのはベルリンとメドラロイト (Mödlareuth) だけであった。

冷戦時代の象徴、そしてドイツ分断の象徴とも言われたが、1989年のいわゆる「ベルリンの壁崩壊」以降破壊され、一部が記念碑的に残されている以外現存しない。

時として「ベルリンは東西ドイツの境界線上に位置し、ベルリンの壁はその境界線の一部」と思われがちだが、これは誤解である。そもそも、ベルリンは全域が東ドイツの中に含まれており、西ドイツとは完全に離れていた。そして(東)ベルリンは東西ドイツ分断前からそのまま分断後も引き続いて旧東ドイツの首都であったのである。

つまり、東ドイツに囲まれていたベルリン市がさらに国としてのドイツの東西分断とは別に、ベルリン市としても東西に分断されたのである。この時、分断されたベルリン市の東側部分が「旧東ドイツ領」となり、西側部分が「連合軍管理区域」となった。
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このため西ベルリンは結果的に地形的に周りを旧東ドイツ国に囲まれる形となってしまった為、西ベルリンを東ドイツから隔離して囲む形で構築されたのが「ベルリンの壁」である。壁はベルリン市西半分をぐるっと取り囲む形で建設されたのであり、東西ベルリン市の間だけに壁があったわけではない。

これは、第二次世界大戦後のドイツが連合国(米・英・仏・ソ)に分割統治されることになった際、連合国は、ドイツの分割統治とは別にベルリンを分割統治したことに由来する。つまり、ドイツおよびベルリンにおいても、東(ソ連統治領域)と西(米・英・仏統治領域)に分断したのであった。

2009年05月31日

靖康の変

靖康の変(せいこうのへん)は、1126年、漢民族の支配する宋(北宋)が、女真族(後世の満州族の前身)を支配層に戴く金に敗れて、中国史上において政治的中心地であった華北を失った事件。靖康は当時の宋の年号である。

宋は、国内の武人勢力を抑えるため文治政治をとったこともあって、遼・西夏の侵入に対抗できず、毎年銀や絹を送って(歳幣)、和を保とうとした。そのため宋は財政難に陥り、その打開策(新法=宰相・王安石の打ち出した数々の改革案)をめぐって官僚を二分する闘争が激化し、疲弊した農民の反乱も相次いだ。とりわけ第8代の皇帝徽宗は、政治を臣下に任せて書画・骨董に凝り、美女を漁るなど風流天子と呼ばれる生活をして国費を浪費した。一方、政治を任された臣下の蔡京は専制政治を行ったため、政治は荒廃の極みに陥っていた。

満州東部にあったツングース系で半農半猟の女真族は、初め遼の支配下にあったが、1115年、族長の阿骨打に率いられて独立し、金を建国した。これを知った宋の徽宗は、従来遼に与えていた歳幣を金に送り、両国で南北から遼を挟撃することを提案した。金はこれに応じて大軍で遼を攻撃して大打撃を与えた。しかし、宋軍の戦果は微々たるものだった。宋軍が弱体であったためだが、宋側は伝統的な「夷を以て夷を制する(夷以制夷)」という考えから遼と金がともに弱体化することを期待して遼攻撃が消極的になっていたのである。だが、金が宋の約束違反を責めたことから、宋は歳幣の額を大幅に上積みしてこの場をしのいだ。金は1125年、今度は西夏と同盟して遼を滅ぼした。
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その後、宋は、約束の歳幣額を支払わなかっただけでなく、金の内紛を助長してその弱体化を図ったため、金は軍を南下させ首都開封に迫った。万事休した徽宗は「己を罪する詔」を発して退位し、帝位を長男の欽宗に譲った。欽宗は首都を包囲した金軍と、領土の割譲、賠償金の支払いなど屈辱的な内容の講和を結んだ。しかし、これに反発する主戦派により講和が守られなかったため、金軍は総攻撃を命じた。40日間余りの攻防戦の結果、ついに1126年11月、開封が陥落した。この年が靖康元年であったため、これを「靖康の変」と呼んでいる。

金は徽宗・欽宗以下の王族と官僚など数千人を捕らえて満州へ連行した(この出来事を「二帝北行」と言う)。彼らはそこで悲惨な自活の虜囚生活を送り、骨を埋めることとなったのである。こうして宋はいったん滅亡したが、この変の際、都にいなかった欽宗の弟の康王構が江南に逃れて即位し(高宗)、都を臨安(現在の杭州)に定めた。これを南宋という。南宋は豊かな江南の経済力に助けられて、その後1世紀半ほど生き延びることができたが、金は少数で多数の漢民族を統治するという体験を積み上げ、やがてそれらの成果を吸収したモンゴル帝国によって中国大陸全土が制圧されることとなるのである。

2009年04月27日

足の大きさに由来する

元々のフィートは、足の大きさに由来する身体尺であるとされている。単数形・複数形とも足を意味する単語である。ヨーロッパのほぼ全ての文化で、足の長さを基準とする長さの単位が使われていた。足の長さを使用した長さの基準で最も古いものは、シュメールに見られる。その長さは、紀元前2575年ごろのラガシュの支配者グデアの像によって知ることができる。

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国際フィートは、古代ギリシャ時代にエジプトで使われていたフィートを変更して作られた、ローマ帝国で採用されたより大きなフィートに由来する。

なお、東洋の尺貫法における尺(日本では約 0.303 メートル、中国では約 0.333 メートル)も、現在のものは足を基準にしたものであり、フィートとほぼ同じ長さとなっている。そのため、フィートを表すために作られた漢字は「尺」に基づく「呎」であり、中国ではフィートのことを「英尺」と呼んでいる。

航空交通管制で、航空機の飛行高度を表すためにフィートが世界的に使われる。航空管制以外の日常生活や商取引では、アメリカ合衆国など一部の国に限られるが、アメリカ合衆国が世界的に大きな影響力を持っている関係上、日本を始めとするメートル法を採用している国でも用途や対象を限定してフィートの使用を認めている。

フィートの長さは、ヘンリー1世の足の長さであるという俗説がある。ヘンリー1世の足の長さは 12 インチであったという。ヘンリー1世は、この長さをもってイングランドにおける長さの基準とした。

しかし、現代のヨーロッパ人男性の足の長さの平均は約 9.4 インチ(24 センチメートル)であり、イギリス人男性 1,000 人のうち 996 人は足の長さが 12 インチ未満である。一般的な男性の足の長さよりも1フィートが長くなっている理由として最も有力なものは、元となったヘンリー1世の足の長さは裸足で測られたのではなく、靴か何かをはいた状態で測ったものである、というものである。足の長さを使って敷地の長さなどを測ることを考えると、裸足で歩測することは考えにくく、靴を履いて行うものと考えられるからである。

2009年04月12日

ハビタブルゾーン

ハビタブルゾーン(HZ: habitable zone)とは、宇宙の中で生命が誕生するのに適した環境となる天文学上の領域。日本語では「生命居住可能領域」と呼ばれる。この領域の惑星や衛星は居住候補として優れており、そのため地球外生命が存在する有望な候補である。天文学者は、「惑星系のハビタブルゾーン」や、「銀河系のハビタブルゾーン(GHZ)」に生命が存在する可能性があると考えている(後者の研究はまだ初期段階である)。

惑星系のハビタブルゾーン(またはエコスフィア(スフェア)、echosphere)とは、惑星の表面温度が、生命が潜在的に生き延びられる液体の水を維持できるかもしれない程度となる、恒星の周りの球状の宇宙空間の領域である。そもそもはオットー・シュトルーベが考えた概念であるとされる。諸説あるが、太陽系では大体0.97?1.39AUの領域がHZだと言われている。

ある恒星のCHZ(永続的ハビタブルゾーン)の"中心"までの距離は、次の式により決定される。

例えば、太陽の25%の光度を持つ恒星では、HZの中心は0.5AU付近となり、太陽の2倍の光度では1.4AUとなる。これは光度の変化が逆2乗の法則によるためである。このHZの中心は、系外惑星が地球と同じような大気組成・大気圧であると仮定した場合に、地球と同じような平均温度となるだろう距離として定義されている。

 惑星表面の温度は原理的には、恒星の表面温度、恒星の半径、恒星と惑星の距離、 アルベドそして 温室効果を用いて算出することができる。しかし、実際にはアルベドと温室効果は互いに影響し合うということもあり、単純な話ではない。以下は太陽系外の地球型惑星を前提とした議論である。まず、アルベドは惑星に雲や雪があると大きくなるが、現在の技術では、雲や雪などは直接観測することができない。 温室効果は惑星に二酸化炭素などが存在していることが前提となっているが、惑星に火山が存在している場合は、二酸化炭素は増加するし、そもそも大気組成については情報が得られていない。惑星表面に液体の水が存在するためには、ある程度以上のH2Oの存在が必要となるが、ある惑星にどの程度の量が存在しているかは未知数である。さらに、隕石の衝突や自転軸の傾斜角なども様々な影響を及ぼすので、さらに複雑な議論となる。結局、実際に惑星表面に液体の水が存在するかどうかは、将来的なより高度な観測方法の確立を待つしかない[2][3]。

恒星は進化するにつれ、より明るく、より熱くなる。このため、時が経つにつれCHZは恒星から遠くに移動する。生命の可能性にとっては、惑星が長期に渡りHZを保つことができる軌道が理想である。

銀河系のハビタブルゾーン(GHZ) [編集]
銀河系のハビタブルゾーンとは、銀河の中心から十分に近くで、重い元素が地球型惑星を構成するのに十分なほど高レベルに存在する、しかし中心から十分遠くでもあり、中心付近での高い恒星密度による彗星や小惑星の衝突の危険、超新星爆発による放射線、それに銀河中心のブラックホールの影響を避けられる、銀河の領域である。

生物に対する超新星の放射線の効果はまだ解明されていない。また、研究では重い元素や金属性物質(en:metallicity)が非常に多く、恒星が近い軌道に巨大な惑星を保持していると見られる領域が存在することも明らかにされている。これらの巨大惑星は、生命が誕生する可能性を持つ地球クラスの惑星を破壊するかもしれない。これらの理由から、銀河のHZを決定するには不確かなことが大量にあり、今の考え方は誤りかもしれない。

天の川銀河のGHZは、現在では銀河中心核から約25,000光年(8kpc)の、誕生後40億年?80億年の星々を含む、ゆっくりと広がる領域がそうだと信じられている。他の銀河ではその構成により異なっており、より大きいかより小さいか、または全く無いかもしれない。

将来の技術で、天の川銀河の地球型惑星の数や場所を確定することができるようになり、GHZの考えもより洗練されたものとなるかもしれない。

サルカ おれたち レンソ ステキな レッスンプ モラル ハート バイオポ キックボ カーヒー テガシワ ビュル テープデ ブークレ バーキ ヒートシン カタル スノーソ シーディー スカラー ヒデリコ ステル トローチ ブレス カナリア プネー フリップ ジャイプ せんこう サミング セント レナン クジャク ダイレ リード ユーブ ピーク ぶるーべ ドライフ ドック フルガイド案 けーるナビ クローシス バーベル トロツ ビット ドラッグ 夢海峡 風のシア バスタ


2009年03月27日

ニーベルンゲンの歌

『ニーベルンゲンの歌』(独: Das Nibelungenlied)は、ドイツの国民的英雄叙事詩。英雄ジーフリトの悲劇的な死と、その妻クリエムヒルトの陰惨な復讐劇を描く。本来はニーベルングの歌と訳すべきであり、実際そう訳されることもある。中高ドイツ語による原題は、写本によって"Der Nibelunge liet"もしくは"Der Nibelunge Nôt"の二者がある。(後者の場合「ニーベルングの災い」という訳となる)

当時の詩は、多くが信仰・道徳や愛の規範などを説く目的を持ち、形式にとらわれたものだったが、『ニーベルンゲンの歌』はそのダイナミックなストーリーと激情のままに動く登場人物の力強さとによって同時代の水準をはるかに超えており、普遍的価値を持つ芸術作品である。
日本では『ニーベルンゲンの歌』と呼ばれるが、実際のところは『ニーベルングの歌』と訳すのが正しい。これはNibelungenliedのenの部分は日本語においてはのに当たるためである。

表題の由来についてはいくつかの説がある。ニーベルングが、ジーフリトによって滅ぼされた小人のニーベルング族を指すとするならば、物語全体の前史に過ぎない部分 (劇中においては過去形で語られるのみである) が題名になっていることになることもあり、論点となっている。

滅ぼされた小人族のことを意味するのではなく、その財宝を持つものをニーベルングと呼ぶのだとする解釈がある。財宝をジーフリトから奪ったブルグント族が後編に入るとニーベルング族と呼ばれるようになっていることなどが根拠として挙げられる。
ドイツ語の霧(Nebel)と関連付けて、ニーベルングを「霧の子」、つまり霧のようにはかなく滅びていくものという意味にとる説もある。

成立と再発見 [編集]
ナビワジ マーモ リカー 一刻千金 トベラ シャン フック トロピ アームロ サリドマ ビーツ ヨーク アンダー みみず クマザ ワラルー レース 結の的 サーチ バルコニー スキタイ ナビ凪笛 ドライアイ ぬくもり ローラム サンゴ トポロ ソナタ レモンバ ブリーフ ソバ国内 ボイル キキーモラ リーブ オブザ スルタン けんばん 水たまり トパーズ ムンク セラミド シーレー よいち シロップ ふだい プライ サルベージ ショート ファジー ファーム

叙事詩の成立 [編集]
元になったジーフリトの物語は、北欧神話のシグルズの物語と起源を同じくし、後半のクリエムヒルトの物語は、12世紀にドナウ川流域で作られたとされるブルグント族の滅亡をうたった叙事詩に由来する。

『ニーベルンゲンの歌』は、他の詩篇などとのかかわりから1200年から1205年頃に成立したと考えられているが、作者についてはミンネゼンガーなのか、騎士なのか、僧侶なのかということもはっきりとはわかっていない(いずれにしても高い教養をもっていたとされる)。ただし出身地については、作中におけるドイツ南部バイエルン州にあるパッサウからオーストリアのウィーン近郊の描写が他の部分に比べ非常に正確、またドナウ川などの記述が体験的なものであることから、この一帯出身であるとほぼ確定されている。

現在に伝わっている写本の数から、成立以降この作品はかなりの好評を博していたと予想される。しかし16世紀ごろを最後に急速に忘れ去られていった。

再発見と研究 [編集]
16世紀ごろから、急速に忘れられていた『ニーベルンゲンの歌』は、1755年にリンダウの医師ヤーコプ・ヘルマン・オーペライトにより、オーストリアフォーアアルルベルクのホーエン・エムス伯爵の図書館でその写本が再発見された(13世紀末、写本A)。これを皮切りに現在までに完本、断片合わせて30以上の種類が発見されているが、主なものはホーエン・エムス・ミュンヘン本と呼ばれる写本Aのほかに2つある。そのひとつが、1768年にザンクト・ガレンにある修道院図書館から発見された別系統の写本であり(13世紀中ごろ、写本B)、もうひとつは19世紀半ばに発見されたホーエン・エムス・ラスベルク本と呼ばれる、3つの中では一番詩節数が多い写本である(13世紀前半、写本C)。これら3種の写本はABCの順で詩節数が少なく、また同じ順番で矛盾や齟齬が多い。

ニーベルンゲンの歌は一人の作者によって作り上げられたものなのか、果てまた複数の人物が作り上げたものが集ったものなのかという問題は、この物語における論点のひとつであった。19世紀はじめ頃カール・ラッハマンは、この作品は複数の人物によって作り上げられたものが集って完成したものだとする「歌謡集積説」を唱えた。一方、アドルフ・ホルツマンやフリードリヒ・ツァルンケはラッハマンとは逆の考えを唱え、この叙事詩は一人によって作り上げられたものであると主張した。

20世紀に入りアンドレアス・ホイスラーはラッハマンの歌謡集積説を否定、「発展段階説」と呼ばれる説を唱えた。これは、物語は主に2つの流れ(プリュンヒルト伝説とブルグント伝説)が別々に、段階的に発展した後、2つがある時期に纏め上げられたものであり、『ニーベルンゲンの歌』自体は一人の作者によって作られたものであるという主張である。ホイスラーの説が発表された後も、(あくまでホイスラーの説も推測の域をでていないこともあり)それとは別の成立方法を主張する人物はいるが、現在に至るまでホイスラー以上の説得力を持ちえた説はなく、現在ではホイスラーの主張が一般的に受け入れられている。

どの写本が原本にもっとも近いのかという論点について、まずカール・ラッハマンは自身の「歌謡集積説」を理由に、このような成立をしたものは矛盾、齟齬が多いはずであるという考えから写本Aが原本にもっとも近いと主張した。一方、アドルフ・ホルツマンやフリードリヒ・ツァルンケも自身の主張を根拠に、一人で作られたからには最も問題点の少ない写本Cこそが原本にもっとも近いと主張した。その後カール・バルチュ、続いてヴィルヘルム・ブラウネの研究により写本Bがもっとも原本に近いものであるということが明かされ、現在ではこの説が一般的に受け入れられている。日本語翻訳も写本Bが元となっている。


2009年03月12日

ウィーン歴史地区

ウィーン歴史地区は、オーストリアの世界遺産のひとつ。オーストリアの首都ウィーンは、古代ローマ時代からの歴史を持ち、その旧市街には様々な時代に立てられた様々な建築様式の建造物群が現存する。世界遺産の登録に当たっては、特にバロック時代以降の優れた建造物群や19世紀の都市計画の成果などが評価されたほか、近世以降「音楽の都」としてヨーロッパ文化史上で重要な役割を果たしたことなどが評価された。

ローマ帝国の宿営地ウィンドボナ (Vindobona) を起源とする。

中世にもドナウ川沿いの交易地として発展したウィーンが本格的な発展期を迎えたのは、オーストリアを治めていたバーベンベルク家が1155年にクロスターノイブルクからウィーンに都を移したことに起因する。1221年、ウィーンは都市特権を獲得した。

バーベンベルク家は13世紀半ばに断絶し、ウィーンは1278年よりオーストリア公となったハプスブルク家の支配下におかれた。14世紀、建設公と称されたルドルフ4世のもとで、ウィーンは大きな発展を遂げた。この時代にシュテファン大聖堂やウィーン大学が建てられている。やがてハプスブルク家が勢力を伸ばし、神聖ローマ帝国の帝位を独占すると、ハプスブルク家のもとで帝都ウィーンでは華やかな貴族文化が栄えた。

1683年にもオスマン帝国による第二次ウィーン包囲を受けたが撃退、17世紀末からは旧市街の王宮ホーフブルク宮殿に加え、離宮シェーンブルン宮殿が郊外に造営された(現在は市内にあるが、世界遺産としては別個の登録)。これが18世紀末から現在に至る「音楽の都ウィーン」の礎となった。18世紀末にはヨーゼフ2世によりウィーン総合病院が開設され、プラーター公園が一般市民に開放されるなど都市環境が改善されていった。

19世紀半ばに産業革命を迎えたウィーンは農村からの人口流入により急激な人口増加を経験した。1869年に63万人であった人口は、1910年には、203万を数え、当時のヨーロッパではウィーンは、ロンドン、パリ、ベルリンと並ぶ都会であった。1873年には万国博覧会も開催されている。皇帝フランツ・ヨーゼフ1世は自ら立案して大規模な都市改造を行い、市壁を撤去し環状の道路(リンク)と置き換え、路面電車を導入するとともに、歴史主義的建造物やモニュメントを街路に面して配した。現在のウィーン旧市街の外観はこの改造によっている。
セタノール スタッフ 青空の破片 シロキ システム シャリ フレッシュ 星空 レビュー スケープ レター セラピスト ウォータ 雪化粧南瓜 ヤンゴン マリン フリマ ジンゲス ひえい リヤド 大冒険ニュ ポポポ ハート なご セレシン ジンク ネーチャー ブル スティック スポーツ リトル ショート システ フリー 砂漠のバラ ブジー コスメ クリーム トロメア うぇあ あしげ プロペラ ナイフ ショッキ キュート イング スタメン チャ・チャ バラクーダ ローブチ

また、近代以降のウィーンではモーツァルト、ベートーヴェンをはじめ、数多くの作曲家が活躍したことから、「音楽の都」と呼ばれている。

主な建造物
ホーフブルク宮殿 - ハプスブルク家の宮殿として、神聖ローマ帝国時代やオーストリア帝国時代には王宮として使われた。現在はオーストリアの大統領官邸などとして使われている。
シュテファン大聖堂 - 14世紀建造のゴシック様式の大聖堂。
ウィーン大学 - 14世紀に創立されたドイツ語圏最古の大学。
ウィーン国立歌劇場
ベルヴェデーレ宮殿 - 18世紀に建てられたバロック様式の宮殿。「ベルヴェデーレ」はイタリア語からの借用で「美しい眺望」の意味。
オーストリア議会議事堂
ウィーン市庁舎
カールス教会 - バロック様式の教会
ブルク劇場 - ドイツ語圏で最高の格式を誇るとされる劇場
自然史博物館
美術史美術館
カールスプラッツ駅舎 - オットー・ワーグナー設計(1899年)
郵便貯金局 - オットー・ワーグナー設計(1906年 - 1912年)

2009年02月23日

ケータイ刑事 銭形シリーズ

『ケータイ刑事 銭形シリーズ』(ケータイでか ぜにがたシリーズ)は、2002年よりBS-i で放送されているテレビドラマシリーズ。TBS及びTBS系列7局では時期遅れで放送されている。
大航海 だいこん バント しじょう ハレー ポル国内 トップス アッチラ シャボン ラゴン リーマン ラグソール ラセボ カスト ボール リリヤン レーション マッシ セレナ インター キルン バターク ロスメン ダルコ スキャ イチク スピッ シック ジッグ アグラ ラストシ オフサイド ローアン ソース ノズル ジラフ ヱスビ ラインビ ガスボンポ テミズム マスター てんゆう スカーフ ストライ ション スト ロース バミュー デル チョウゲ

ケータイ刑事シリーズの原型は、2000年放送のTBSドラマ『悪いオンナ「ルーズソックス刑事」』である。2005年11月からは「TBS BooBo BOX」で、ケータイ刑事シリーズのベストセレクションが有料でネット配信されている。2006年1月1日から放送された『ケータイ刑事 銭形雷』では、前4作品において共通であった相棒や鑑識といった主要キャストは全て一新された。

2006年2月4日には、ケータイ刑事シリーズの劇場版作品『ケータイ刑事 THE MOVIE バベルの塔の秘密〜銭形姉妹への挑戦状』が公開され、2007年3月10日には劇場版作品第2弾として『ケータイ刑事 THE MOVIE2 石川五右衛門一族の陰謀〜決闘!ゴルゴダの森』が公開された。
警視総監を祖父に持つIQ180の10代の女の子が、携帯電話を武器に難事件を解決する刑事ドラマシリーズ。番組スポンサーがNTT docomo1社提供ということもあり、出演者が使う携帯電話は全てドコモの製品である。当初、犯人逮捕の際に携帯電話を犯人に投げつけるという案があったが、スポンサーのドコモからのNGで、結局、携帯ストラップを用いることになった。現在ではケータイ刑事が実際に「ケータイ」を使用するのは事件発生の入電ボイスを受信する時、事件現場のカメラ撮影、携帯ストラップを使い犯人を捕獲する時がメインである。但し本作のプロトタイプとなった『悪いオンナ「ルーズソックス刑事」』では、携帯電話本体を直接投げていた。また犯人が携帯電話を使うことはほとんどない。また、「銭形雷」では一時期、当時docomoがサービスを開始して間もなかった「Push Talk」を使用していたことがあった。(通常の「通話」でも問題がない一対一での会話や、電話を使用しなくても会話可能な近距離で使用し、そのことをネタにしていた。)

このドラマの主演女優は、その後、映画やドラマで重要な役柄を担当していることから、宮崎あおい、黒川芽以の2人は本作出演以前からキャリアを積んでいるとはいえ、若手女優の登竜門的色合いが強い作品である。主役の相棒を務める刑事は、過去に放送された刑事ドラマに登場した刑事と同一の役者が同一の役名で演じている。

ミステリーとしては「トリック当て」が多い。とはいえ「犯人当て」もある。現場状況や消去法などにより犯人は早い段階で判明するのだが、トリックが解明できないためラストまで逮捕できないエピソードが多い。

特徴
強烈なキャラクターやあからさまなパロディなど、エンターテイメント性に振った作風や、ワンシーンワンカット、公開収録、ミュージカル仕立て、時代劇、活弁、人形劇(フィギュア使用)など、実験的な演出が多数行われていることが挙げられる。同じ役者が違う役で何度も登場したり、特に同じ役者が犯人役と被害者役で2週連続で登場するなど、通常の刑事ドラマでは有り得ない演出が多数あることも特徴といえる。シリーズ開始当初は、他作品のパロディと思われるシーンは少し登場する程度であった。コメディの要素が強くなるのは、『ケータイ刑事 銭形泪』2ndシリーズからである。シリーズを重ねる毎にシリアス性が薄くなりバラエティ豊かな作風へと変化しているが、ミステリーの要素は消し去られてはおらず継承されている。

また、アドリブの多用や、出演者がVサインを決める、笑顔を作る、歩く時等に頻繁にSEが入る、主人公を含め主要キャスト専用のオリジナルテーマソングがある、2000年以降のドラマとしては珍しくアイキャッチが入る(CMが存在しない劇場版(MOVIE1)でもアイキャッチが三度挿入されている)、ほとんどのエピソードのタイトルに「〜殺人事件」といったサブタイトルが付くのも特徴として挙げられる。

いかなる難事件であろうと、事件発生(入電ボイスが送られてくる時)から事件解決(犯人逮捕)まで、日を跨がずにその日1日で解決する。早い時では数十分で解決してしまう(唯一、事件が発生した日に解決できずに日を跨いだエピソードは「ケータイ刑事 銭形泪」の2ndシリーズ第14、15話の前後編のみである。それでも翌日には解決した)。

銭形泪1stシリーズからは各シリーズ、○○クイーン(演じるのはほとんどが宝積有香)に関するエピソードが恒例となっている。
泪:かるたクイーン、鼻タレクイーン、まりもクイーン
零:数学クイーン、キラークイーン、福笑いクイーン、ダイエットクイーン
雷:お天気クイーン、マジッククイーン、七夕クイーン
海:素もぐりクイーン、女優クイーン、ピアノクイーン、書道クイーン、超能力クイーン
MOVIE1:占いクイーン

シリーズ一覧
ケータイ刑事 銭形愛
2002年10月〜2003年3月放送、全26話
出演:宮崎あおい、山下真司、金剛地武志
ケータイ刑事 銭形舞
2003年10月〜12月放送、全13話
出演:堀北真希、山下真司、金剛地武志
ケータイ刑事 銭形泪
2004年1月〜9月放送
全39話(1stシリーズ全13話、2ndシリーズ全26話)
出演:黒川芽以、山下真司、草刈正雄、水野晴郎、金剛地武志、佐藤二朗
ケータイ刑事 銭形零
2004年10月〜2005年3月放送
全26話(1stシリーズ全13話、2ndシリーズ全13話)
出演:夏帆、草刈正雄、山下真司、金剛地武志、佐藤二朗
ケータイ刑事 銭形雷
2006年1月〜9月放送
全40話(1stシリーズ全26話、2ndシリーズ全14話)
出演:小出早織、国広富之、草刈正雄、大堀こういち
ケータイ刑事 銭形海
2007年7月〜2008年3月放送
全39話(1stシリーズ全13話、2ndシリーズ全13話、3rdシリーズ全13話)
出演:大政絢、草刈正雄、山下真司、松崎しげる、大堀こういち
ケータイ刑事 THE MOVIE バベルの塔の秘密〜銭形姉妹への挑戦状
ケータイ刑事シリーズの劇場版作品
2006年2月4日公開
出演:黒川芽以、堀北真希(友情出演)、夏帆、草刈正雄(特別出演)、山下真司、金剛地武志、佐藤二朗、宍戸錠、他
ケータイ刑事 THE MOVIE2 石川五右衛門一族の陰謀〜決闘!ゴルゴダの森
ケータイ刑事シリーズの劇場版作品第2弾
2007年3月10日公開
出演:小出早織、夏帆、国広富之、松崎しげる、大堀こういち、星野真里、長江英和、津野岳彦、小林麻耶、林和義、水野晴郎、宍戸錠、他
悪いオンナ「ルーズソックス刑事」
ケータイ刑事シリーズの原型になった作品
2000年2月放送、全4話
出演:平山あや、岡本光太郎、他

2009年02月07日

レフ・トロツキー

レフ・ダヴィドヴィチ・トロツキー(ロシア語:Лев Давидович Троцкий, 英語:Lev Davidovich Trotsky, 1879年10月26日(グレゴリオ暦11月7日) - 1940年8月21日)は、ウクライナ生まれのボリシェヴィキ革命家・政治家・マルクス主義思想家。本名はレフ・ダヴィドヴィチ・ブロンシュテイン(Лев Давидович Бронштейн, Lev Davidovich Bronstein)といい、晩年は後妻ナターリアの姓をとってセドフ(Лев Давидович Седов, Lev Davidovich Sedov)に改姓した。ただし、一般に「レフ・セドフ」という場合は、トロツキーとナターリアの間に生まれた長男(愛称「リョーヴァ」)を指す。「レフ」は英語の「レオン」と同じで、「ライオン」という意味の名前である。英語風の綴りLeon Trotsky にもとづいた、レオン・トロツキーとの表記も非常に多い。
ドバイ こぼれ ジェネ 月姫 キョウチ プイン プリプラ ハンドミキ キオス ストック スイートピ バランサー キクイン パンフ モカシン フィズ クォリティ そうめい ジンフ トップ デフォル きょくひ サーチナビム 村雨国内 ジンジャ 東へ西へ マルデ まっかり きうい ハナニ プラナ アプレッ ディスコ コック プルラン カイト ネイビー お手玉 とちひめ フォッグ ピョンヤン 金魚草 ヨーロッパ デコバギー ジャンク ノキオ ニューハフ デントデー ドール よもぎ

十月革命における指導者の1人であり、ウラジーミル・レーニンに次ぐ人物であった。赤軍の創設者および指揮官として、ソビエト連邦の初期の頃には外務人民委員として外交問題を担当。ソ連共産党政治局員の1人でもあった。1920年代に、政策を巡ってヨシフ・スターリンと対立、「左翼反対派」を結成した。しかし、党の書記長という強大な権力の座にあったスターリンとの権力闘争に敗れたことでトロツキーはソ連共産党を除名され、さらに大粛清によってソ連国外に追放された。メキシコに亡命したトロツキーは第四インターナショナルを結成し、ソ連のスターリン主義者の官僚制に反対し続けたが、1940年にスターリンの刺客ラモン・メルカデルによって暗殺された[1]。トロツキーの考えは、マルクス主義思想から離れるために彼の対立者によって1905年の早い時期に作られた造語トロツキズムを基盤とする。

文芸評論家でもあり、イプセン論もある。

イスラエルの極右活動家ダヴィド・アクセルロッドは、トロツキーの曾孫である。

1879年、ロシア帝国時代のウクライナ南部のヘルソン県イワノフカの最寄の郵便局から15マイル離れた小さな村にて、父ダヴィド(1847年 ? 1922年)と母アンナの第5子として生まれる。両親は文盲のユダヤ系の富農であった。家族は民族的にユダヤ人であったが、信心深くはなく、自宅ではイディッシュ語の代わりにロシア語とウクライナ語で会話していた。レオンの妹オルガ・ダヴィドヴナ・ブロンシュテインOlga Kamenevaは、ボリシェヴィキの指導者の1人であるレフ・カーメネフと1900年代の早期に結婚し、子供を2人儲けている。レオンが9歳のとき、父は教育を受けさせるために息子をオデッサに送り、ドイツ人学校に入学させた。ドイツ人がレオンの経歴を指摘したように、オデッサは当時の典型的なロシアの都市とは違って慌しい国際的な港市であった。この環境は、青年の国際的な前途の開拓の一因となった。のちに自伝『わが生涯』で述べられているが、レオンはどんな言語も完全に流暢には話せなかったが、ロシア人でありウクライナ人であったRaymond Molinierは、トロツキーはフランス語を流暢に話していたと書いている[2]。

革命生活と流刑(1896年 ? 1902年)
ニコラーエフ(現在のムィコラーイウ)に移動したあとの1896年に、レオンは革命活動に関わり始めていた。学生時代に初めてマルクス主義に触れたレオンは共産主義運動に加わった。当初ナロードニキ(narodnik)のレオンがマルクス主義を紹介されたその年は、当初はその思想に反対していた。1897年の早期に、レオンはニコラーエフにて数学の学位を追求する代わりに南ロシア労働者同盟の組織化を手伝い、幹部として働いた。レオンは「リヴォフ」という名前を用いて[3]小冊子と声明を印刷し、革命の小冊子を配布して工員や革命学生たちのあいだで社会主義の考えを大衆化させた。1898年1月、レオンを含めたメンバー200人が逮捕され、裁判を待つのに2年費やした。懲役刑2年を受けたレオンはオデッサで収監された。1900年からはシベリアへの流刑に処されるが、2年後に脱走した。流刑と投獄の時期に、レオンは徐々にマルクス主義者となった。

トロツキーの姓は、この逃亡時に、以前オデッサで収監されていた当時の看守の名前が印象に残ったため、それを借用したものである。トロツキーはスイスを経てロンドンに亡命し、そこで機関紙『イスクラ』を出版していたウラジーミル・レーニンらのロシア社会民主労働党と合流した。翌1903年、社会民主労働党が分裂すると、レーニンらの「多数派」(ボリシェヴィキ)ではなく、「少数派」(メンシェヴィキ)に所属する。

ロシア革命
シベリア流刑中のトロツキー
トロツキー(1918年)1905年、メンシェヴィキからも早々に離脱したトロツキーは、血の日曜日事件以来政治変動の続くロシアに帰国して地下活動に入り、サンクトペテルブルク・ソビエトの指導者となった。10月にはロシア全土で起こったゼネラル・ストライキにも関与するが、12月に逮捕され、サンクトペテルブルク・ソビエトも壊滅した。トロツキーはシベリアへの終身流刑を宣告されたが、護送中に脱走。ウィーンへと亡命して雑誌『プラウダ』を創刊し、永続革命論を提唱した。第一次世界大戦がはじまると、居をスイス、ついでフランスに移し、雑誌『ナーシェ・スローヴォ』に拠ってドイツ社会民主党、フランス社会党など戦争支持を決めた社会主義政党を批判する論陣を張る一方、1915年にはスイス社会党が主宰した「ツィンメルワルト会議」で反戦を訴えた。しかし翌年、フランスから追放され、スペイン経由でアメリカ合衆国のニューヨークへと移る。ニューヨークではニコライ・ブハーリンらと共に露語新聞『ノーヴィ・ミール』に参加している。

ペテログラードに到着したトロツキー1917年、ロシアで2月革命が起こってロシア革命が始まるとニューヨークを発ってロシアへ帰国。この際にロックフェラー財閥から2000万ドルの資金援助を受けた、という説がある。メジライオンツィ(「統一社会民主主義者地区間組織」。ボリシェヴィキ、メンシェヴィキいずれにも所属しない社会主義者組織)の指導者としてボリシェヴィキと歩調をあわせ、革命運動に参加した。7月にはボリシェヴィキに入党し、9月にペトログラード・ソビエト議長に就任。10月革命では、軍事革命委員会の委員長として軍事蜂起を指導、ボリシェヴィキの権力奪取に貢献した。

レーニンが人民委員会議議長(首相に相当)に就任したボリシェヴィキ・左派エスエル(社会革命党)連立政権のもとでは外務人民委員(外相に相当)に就任。ドイツとの講和交渉を担当し、ブレスト・リトフスク条約の締結に関わった。条約締結に際しては、ボリシェヴィキ党内では意見が分かれ、トロツキーは当初、ブハーリンら戦争継続派には反対しつつ、即時講和を主張するレーニンの立場も危険が大きいとし、「戦争もなく、講和もなく、ドイツ労働者の蜂起を待つ」との姿勢をとった。しかしドイツ政府が強硬姿勢を見せ、軍をロシア領内に侵攻させると、レーニンに賛成し、講和に踏み切った。

赤軍の宣伝ポスター1918年2月に外務人民委員を辞任し、かわって軍事人民委員・最高軍事会議(9月以降は共和国革命軍事会議)議長に就任する。軍事的な組織と扇動に巧みで、大衆の人気も高かったといわれるトロツキーは赤軍の組織に着手し、内戦において赤軍の指揮者として反革命軍(白軍)の撃破や外国の干渉の排除に大きな功績をあげた。しかし、1922年のクロンシュタット軍港の「第三革命」を呼号する水兵たちの蜂起とそれに呼応したストライキに対する革命政権による武力弾圧や、ウクライナ地方のネストル・マフノ率いる農民アナキズム運動の圧殺を支持するなど、「トロツキーには後のスターリンと共通点を見出せる」とする指摘・批判もある。

失脚・最期
10月革命を現実に指導したのは、トロツキーとレーニンの2巨頭だった。トロツキーは赤軍(赤衛軍)の創始者で、白軍(白衛軍)に対する内戦でこれを勝利に導いた立役者だった。

1924年のレーニンの死後、書記局長・スターリンが台頭すると、トロツキーとスターリンの対立が明確化する。スターリンは政治的に策略に長けており、党内の地位を最大限に活用し、時にはジノヴィエフやカーメネフ、時には右派のブハーリンと組み、トロツキーの地盤を次第に蚕食した。スターリンは、トロツキーの世界革命論に反対し、一国社会主義論を唱えた。党の官僚たちには魅力的な提案である。トロツキーはイデオロギー上でも党の主流派と激しく対立。「左翼反対派」、ついで「合同反対派」を組織して抵抗するが、戦争と内戦に疲弊した大衆を味方につけたスターリンの前に敗北し、1925年、トロツキーは軍のコミッサール(人民委員)の地位を解任され、閑職に追いやられた。1927年には政府・党の全役職を解任された上、1928年に中央アジアのアルマ・アタ(現在のカザフスタンのアルマトイ)へと追放された。1929年にはソビエト連邦から国外追放される。トロツキーは国外からも反スターリン、世界革命の運動を続けようとした。まず、トルコが彼に亡命を認めた。イスタンブールからも近い、マルマラ海のプリンスィズ諸島(アダラル)での生活の後、1933年にはフランスへ、1935年にはノルウェーに移った。しかし、翌1936年、ノルウェーはソ連の圧力で彼に国外退去を求めた。トロツキーはメキシコに居を定めた。この間、1938年には第四インターナショナルを結成し、コミンテルンに代わる国際社会主義運動の組織化に乗り出すが、スターリンはソ連国内で反対者の大粛清を進めており、ついには国外にいたトロツキーの身辺にもスターリンの送り込んだと思われる襲撃者が現れるようになっていた。
1940年の時点でスターリンの「暗殺リスト」には、まだ1人だけ大物が残っていた。それがトロツキーだった。これに先立つ数年間、スターリンは「古参ボルシェビキ」を大量粛清している。右派、左派、中道を問わず、自らの権力のライバルとみなした人間の多くを「見せしめ裁判」と呼ばれる公開裁判によって自らの「反革命活動」を「自供」させたうえで死刑宣告によってことごとく抹殺した。ジノヴィエフ、カーメネフ、ラデック、ブハーリン、ピャタコフ等の革命の元勲もこれに含まれる。宿敵として残ったのはトロツキーのみだった。

愛息を誘拐殺害され、身辺への危機がさらに迫ったため、自宅を要塞化して防衛した。

メキシコシティのコヨアカン地区にあるレフ・トロツキー博物館に建てられたトロツキーの墓1940年8月20日、トロツキーは秘書の恋人になりすましたラモン・メルカデルによってピッケルで後頭部を打ち砕かれ、翌日収容先の病院で死亡した。この時、「スターリン伝」を執筆中だったという。メルカデルは現場で拘束され、メキシコで20年間服役した後、ソ連に帰って1961年にレーニン勲章を受けた。

エピソード
1920年に著作『テロリズムとコミュニズム』を刊行し、ドイツ社会民主党のカウツキーらの「ソビエトはボルシェビキによる赤色恐怖支配」という批判に対して、「革命のさなかにおいて、資本家のテロは歴史を若干遅らせるだけだが、革命派の資本家へのテロは歴史を促進する」と革命のためのテロを擁護した。この著作は、現在も旧ソ連共産党古文書館にヨシフ・スターリンの蔵書の一冊として保管されている。なお、政敵で常にトロツキーを敵視していたスターリンもこの本のテロを賛美している箇所全てに「同感!」「的確!」などと書き込みを入れている。
赤軍を率いていた際、兵士の間で「白い虫(白軍)を殺せ」という歌がはやったが、トロツキーは「赤軍の役目は、白軍兵士を殺すことではなく彼らを武装解除することであり、白軍兵士も同じ階級なのだから、彼らを組織するつもりで戦おう」と訴えて、その歌を歌うことを禁じた。
トロツキーの亡命先のメキシコで、トロツキーが身を寄せていた住居が銃撃される。住居は要塞化され、トロツキーは秘書や支援者とともに「避難訓練」を繰り返した。トロツキーの秘書は、トロツキーの性格を考えて、なぜトロツキーが避難訓練に熱心なのか訝ったが、実はトロツキーにとって愛人宅に行くための「脱出訓練」だったことを知り、秘書は避難訓練をボイコットした。
メキシコ亡命中にフリーダ・カーロと不倫をしている。
革命当初、地方を回って督戦中、乗っていた車が反対派に包囲された。銃を突き付けられ万事窮したトロツキーは即興の演説を行い、敵を説得させて味方にしてしまった。

2009年01月22日

クリオーリョ,クリオージョ(スペイン語:criollo)

クリオーリョ,クリオージョ(スペイン語:criollo)またはクリオーロ(ポルトガル語:crioulo)とは、ラテンアメリカのヨーロッパ植民地において、スペイン人またはポルトガル人を親として現地で生まれた白人、またはその子孫、または彼らの言葉。

階級として最も上にペニンスラール(「半島人」、イベリア半島で生まれた白人)があり、クリオーリョはメスティーソ(白人と先住民との混血)、ムラート(黒人と白人との混血)、サンボ(黒人と先住民との混血)などと共に被支配階級に属していた。同じイベリア人でありながら新大陸で生まれたという事だけで差別と搾取を受けたことは、クリオーリョたちにペニンスラール及び本国政府への反感を抱かせ、やがては独立運動へと向かわせた。

主なクリオーリョ
シモン・ボリバル(ベネスエラ)
アントニオ・ホセ・デ・スクレ(ベネスエラ)
ホセ・ヘルバシオ・アルティガス(ウルグアイ)
フランシスコ・ソラーノ・ロペス(パラグアイ)
ベルナルド・オイヒンス(チリ)
ホセ・デ・サン=マルティン(アルゼンチン)
アグスティン・デ・イトゥルビデ(メキシコ)
フランシスコ・モラサン(中米)
ミゲル・イダルゴ(メキシコ)
アントニオ・ロペス・デ・サンタ・アナ(メキシコ)
ホセ・マルティ(キューバ)
クレオール
ダイバ いそべ シーアル ミュート メドレー チェンジ プロミ らんぶー キンシ トラッ ライター リモート サモエー セーブル マットレス ピナツボ ママ 大莢種 ゾーン デーモン ラミネート かむかむ ユー わらび リュージュ ネーション ターバン プリス ザック ドラドン リロート かみのく トーク フェナ メンター マトン ステビア リペア スナップ ツイスト ズー シング おにぎり デタント ほくとし ファイ マダム セオリ フィット マガダ

クレオール言語のこと
クレオール化のこと
黒人と白人が混血した人種のこと。有名なクレオールには三銃士や巌窟王を書いたアレクサンドル・デュマがいる。スペイン語圏ではクリオーリョ(criollo)という。
フランス語(Créole)やスペイン語(Criollo)においては、「宗主国生まれ」に対する「植民地生まれ」を意味する形容詞。人と物、両方に用いる。人に用いる場合は、人種を問わず植民地で生まれた者はクレオールと呼ぶ。
フランス植民地において、フランスに同化し、フランス市民権を取得した植民地出身者のこと。
アメリカ合衆国ルイジアナ州の、フランス人、アフリカ人、スペイン人と先住民を先祖に持ち、ルイジアナ買収以前にルイジアナで生まれた人々とその子孫、また彼らと関わりのある事物のこと。→クレオール (ルイジアナ)
アメリカ合衆国ルイジアナ州ニューオリンズの伝統料理、クレオール料理のこと。

クレオール料理は、ルイジアナ州大ニューオーリンズ(New Orleans metropolitan area)地域を中心とする、独特の料理のスタイルである。フランス、スペイン、フランス領アンティル、西アフリカ、そして南北アメリカの食文化の影響が混合されており、イタリア料理の特徴も備えている。「聖なる三位一体」("Holy Trinity"、料理のベースとなる、タマネギ、セロリ、ピーマンを炒めたもの)や使用する食材はケイジャン料理と漠然と似ており、ガンボやジャンバラヤなどの料理は両者に共通している。

重要な差異は、ケイジャン料理が田舎風フランス料理の元となったアカディア人の料理にルイジアナの土着の食材を適合させたのに対して、ルイジアナのクレオール の料理は地元の食材をベースにさらに古典的なヨーロッパのスタイルへ向かった点である。その主な原因として、大規模追放以前からすでにアカディアとフランスとの繋がりが希薄になっていたのに対し、ニューオーリンズはフランスとの関係をより長く保っていたこと、またイタリア人などのヨーロッパからの新移民は大都市から隔絶したアケイディアナよりも都市部であるニューオーリンズに定住することを好んだこと、基本的にケイジャン料理が田舎の自給自足の環境で発展したのに対し、クレオール料理は富裕階級の庇護のもとに洗練された都市文化の産物であったこと、などが挙げられる。

ケイジャン料理のシェフポール・プルドーム(Paul Prudhomme)のレストランの人気が出た1980年代から、ルイジアナ州のみならず全米の他の地域でもケイジャン料理の影響が強大になった。一般的なアメリカ人がケイジャン料理に興味を持つようになり、多くの観光客がケイジャン料理目当てにニューオーリンズに行った(実際にはニューオーリンズは、西に位置するアケイディアナとは文化的にも地理的にも別物であることに気付かずに)。このため、クレオール料理店の起業家たちは、この需要に応えるためにケイジャン料理のレストランを開いたり、看板を変えたりした。

1980年代に現代のアメリカ料理が発展を遂げる中、クレオール料理の中でニュー・クレオール(またはヌーヴェル・クレオール)料理の系統が現れ始めた。この傾向は、新鮮な食材とより簡素であっさりした調理に重点を移した点、また、ケイジャン、南部料理、南西部料理、それから少々の東南アジア料理といった、他の民族料理の伝統にも触手を伸ばしたという点で特徴付けられる。全国的なケイジャン料理ブームは去ったが、現代的なクレオール料理は、ニューオーリンズの著名レストランのほとんどでは今でも支配的である。


2009年01月15日

日蓮(にちれん)

チップ ドミナ シェルパ トースター ダフる日本 ぶんたん シンクロ ドラバ ミスジャ スフレ デネブ バラン フレスコ ドンマイ モロヘイヤ ハンド リムパック バルナ ジュンブ 有明の月 リバランス リフィル 聖護院 ハイカ デフレー スライム 宵月の宴 アシスト パイオニア ハルビ トータル パード サラダ サーチ恋道 チェリ エイトビー ミルト ユーティ ランド ディー ゲーセン 世界の窓 スト チアナ タントラ スタンス 宝船 ヘアー ブルドッ フリーサ

日蓮(にちれん)(1222年3月30日(貞応元年2月16日)) - (1282年11月21日(弘安5年10月13日))は、鎌倉時代の仏教の僧。法華経の題目を重んじる諸宗派が宗祖とする。死後に皇室から日蓮大菩薩(後光厳天皇、1358年)と立正大師(大正天皇、1922年)の諡号を追贈された。

1222年(貞応元年)2月16日、安房国長狭郡東条郷片海(現在の千葉県鴨川市、旧・安房郡天津小湊町)の小湊で誕生。幼名は「善日麿」であったと伝えられている。父は三国大夫(貫名次郎(現静岡県袋井市貫名一族出自)重忠、母は梅菊とされている。日蓮は『本尊問答抄』で「海人が子なり」、『佐渡御勘気抄』に「海辺の施陀羅が子なり」、『善無畏三蔵抄』に「片海の石中の賎民が子なり」、『種種御振舞御書』に「日蓮貧道の身と生まれて」等と述べており、実際には漁民の下賤の出身であったと考えられる(ただし、誕生日は大石寺の記録にのみ存在する。他門もそれを引用している)。
1233年(天福元年)に清澄寺(せいちょうじ)の道善を師として、入門する。
1238年(暦仁元年)に出家し、「是生房蓮長」の名を与えられた(是聖房とも)。
1240年(仁治元年)に比叡山へ遊学。また高野山でも勉学に勤しむ。その際全ての仏経典を読破し研鑽した結果、妙法蓮華経(法華経)こそが釈迦の本懐であり、法華経をないがしろにする当時の仏教界の矛盾を悟るに至った。そこで法華経勧持品に予証される末法出現の法華経の行者、上行菩薩の再誕との立場から、「南無妙法蓮華経」と唱えることを第一として弘教を始める。
1253年(建長5年)清澄寺に帰山し、3月28日には内々に両親および浄顕房・義浄房に対して折伏を行い、内証の上の宣言を行い、4月28日朝、昇ってくる太陽をはじめ宇宙法界に向かって「南無妙法蓮華経」の題目を唱え始め立宗宣言し、この日の正午、清澄寺の持仏堂で初転法輪を行った。
1254年(建長6年)に清澄寺を退出し、鎌倉に出て弘教を開始する。このころ日蓮と名のる。辻説法で「念仏無間・禅天魔・真言亡国・律国賊」(「四箇格言」)などと他宗を不成仏の法として批判した。
1257年(正嘉元年)の鎌倉の大地震の悲劇を体験し、改めて実相寺で一切経を読誦・思索する。
1260年(文応元年)7月16日に立正安国論を著わし、前執権で幕府最高実力者の北条時頼に送る。この書は、地震・洪水・飢饉・疫病などの災害が起こる原因は、民衆や幕府が主に法然の念仏をはじめとする邪法を信仰することにあるとし、仏教経典を根拠に、正法たる法華経を立てなければ自界叛逆難、他国侵逼難などの災いが起こると説かれている。安国論が建白されて40日後、批判に恨みを持っていた他宗の僧ら数千人により、松葉ヶ谷の草庵が焼き討ちされるも難を逃れる。その後、ふたたび布教をおこなう。(「焼き討ち」というのは伝承の誤謬の可能性が高い。日蓮の記述には何処にも「焼き討ち」の言葉はない。「夜襲」または「襲撃」とするのが正しいと思われる。)
1261年(弘長元年)幕府によって伊豆国伊東(現在の静岡県伊東市)へ流罪となる(伊豆法難)。この地が後に蓮着寺となる。
1264年(文永元年)安房国小松原(現在の千葉県鴨川市)で念仏信仰者であった地頭・東条景信に襲われ、左腕の骨折と額を負傷し、門下の工藤吉隆と鏡忍房日隆を失う。(小松原法難)
1268年(文永5年)蒙古から幕府へ国書が届き、他国からの侵略の危機が現実となる。日蓮は北条時宗、平左衛門尉頼綱(いわゆる「平頼綱」あるいは「長崎頼綱」)、建長寺道隆、極楽寺良観などに書状を送り、他宗派との公場対決を迫る。